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    「俊寛」を知っていますか?

    時は治承元(1177)年、平家全盛の頃。僧都・俊寛は「鹿ヶ谷の陰謀」-後白河法皇の密命により平家打倒を画策したという-で平清盛の怒りにふれ、丹波少将成経・平判官康頼の2人とともに「鬼界ヶ島」へ流罪となってしまいます。

    翌年、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願のために大赦が行われ、俊寛らの待つ鬼界ヶ島へも赦免の船がやってきますが、赦された人の名前の中に、清盛に深く憎まれた俊寛の名前だけはありませんでした。せめて九州までもと取りすがる俊寛を払いのけ、一気に沖へと漕ぎ去る赦免船。ただ一人島に取り残され、消えてゆく舟影を呆然と見送るしかなかった俊寛…。

    平家物語に伝えられ、後世さらに脚色されて能や歌舞伎の題材として人気を博したこの「俊寛」伝説の舞台、鬼界ヶ島。

    ところでこの島、ちょっと日本地図で探してみて下さい。見つかりましたか…?
    そう、隅々まで探しても、現代の地図には「鬼界ヶ島」などという名前の島は見つからないでしょう。

    ひとり残された俊寛が一生を終えたというこの島は、いったいどこにあるのでしょうか?


    実は、このエッセイを書いたのは1996年。おぉ、もう随分と古い話になってしまいましたね。

    ある能楽関係のWebサイトに載せていただいていた文章なのですが、そのサイトは随分前に閉鎖され、みなさまの目に触れる機会を失ってしまいました。

    久しぶりに当時の原稿を読み返してみると、なかなかどうして、よくまぁこんな辺鄙な島々を(地元の皆様ゴメンナサイ)巡り歩いたものだと我ながら呆れてしまうのであります。

    このまま埋もらせてしまうのも勿体なく、こちらで再掲載させていただくことにいたしました。

    文中に出てくる中村勘九郎は当然先代の勘九郎ですし、約10,000人とご紹介した「喜界島」の人口は今では7,000人を割り込み(2020年1月1日現在)、一方で離島だったはずの「伊王島」には2011年に橋が架かり、車で行けるようになりました。

    私が島を巡ったこと自体が、もはや歴史を感じさせる古い話のようにも思えますが、そんなギャップも探していただきつつご笑覧くださいませ。


    「平家物語」などに伝えられるところによると、俊寛ら3人の流罪された島は「硫黄島」と呼ばれ、また「鬼界ヶ島」と呼ばれることもある。謡の中にも「硫黄」「九州薩摩潟」「鬼界が島」といった言葉が出てくるのだが、この島が現在のどこにあたるのかは、実はいくつかの説があって現在でもわかっていない。

    俊寛が流された島はここだ、と名乗りをあげている島は、私の知る限り3つ、いずれも九州地方にある。1つめは、俊寛が晩年を過ごしたという「俊寛堂」が復元され、当地で中村勘九郎による歌舞伎「平家女護島」が演じられた硫黄島(鹿児島県)。2つめは、俊寛のものと伝えられる墓が残り、その墓の調査により俊寛のものと推定される人骨と木管、装飾具が発見されたという喜界島(鹿児島県)。そして3つめは、同じく俊寛の墓があり、当地を訪れた北原白秋が俊寛を憐れんで詠んだ歌碑の残る伊王島(長崎県)である。

    こうした島々を実際に見比べてみようと、平成8年春、私は「俊寛」伝説の残るこれらの3つの島々を順に訪ね歩いてみた。


    [1]硫黄島~赤く輝く火山と温泉の島

    鹿児島港から南へ100Kmあまり、硫黄島へと向かう村営船「みしま」は3日に1回しか就航していない。人口は200人足らず、今も噴煙を上げる「硫黄岳」を中心とした火の島である。

    鹿児島港を出て4時間、穏やかな海を越えて西に硫黄島の姿が間近になってきた。硫黄岳の山頂から崩れた岩肌が海岸まで一直線に落ち込み、とても人の住めそうにない険しい島だ。しかし、硫黄岳を右に見つつ島を回り込むと、やがて小さな平地が現れ、「みしま」は硫黄島港へと入港した。都会から遠く離れた小島、海の色もさぞ美しいだろうと思うところだが、海面は何と一面鉄サビのような赤茶色。なんでこんなに汚れているのかと思わせる色だが、何でも港の底から温泉がわいているせいで、決して汚い訳ではないのだという。さすがは活きた火山の島だ。

    ひと晩お世話になる「民宿硫黄島」さんに荷物を置き、早速島の中央近くにある「俊寛堂」へ出かけた。

    島内にはバスやタクシーなどはなく、宿の車を頼まない限り、この島を巡るには自分の足だけが頼りだ。島に1つしかない集落を抜けると、しばらくは椎茸でも栽培しているのだろうか、たくさんの木組みが並ぶ畑が続いていたが、やがて道の両側は静かな林になった。ほどよい風と日射しが心地よい散歩道だ。

    20分ほど歩いて「俊寛堂」の立札から脇道へ入ると、今度は谷へと下る暗い山道だった。道の上を苔が覆っていて、一歩進むごとに靴が静かに沈む感覚が柔らかくて気持ち良い。3分ほどで谷へと降り、小さな池の脇を通ると、六角形の小さなお堂が建っていた。俊寛堂だ。

    復元されてからまだ日が浅いのだろう、俊寛堂はこざっぱりとしたきれいな建物だった。ここはただ1人、島に取り残された俊寛が絶望の日々を送ったところだという。うっそうとした木々に囲まれ、あたりは風の音が過ぎてゆくのみ、俊寛はなぜこのような暗く寂しい谷間を最期の場所に選んだのだろうか。海の見えない場所に籠ることで、叶えられぬ望郷の念を忘れようとしたのか、それとも、自分が都びとだというプライドが、島の人たちとかかわりつつ暮らしていくことを拒ませたのだろうか…。

    俊寛堂を離れ、そのまま島の名所巡りへと出かけた。波打ち際の温泉に火山の展望台、遣唐使や平家の落ち武者の遺跡、なぜか島じゅうを闊歩する孔雀たち(本物ですよ)等々、この小さな陸地に自然も歴史もと欲張りなほど見どころの多い島だ。これらの見どころの話も是非書きたいところだが、今回の主題から離れてしまうので我慢しておく。が、1つだけ紹介させていただこう。俊寛の死からわずか5年後、壇ノ浦に平家が滅んだとき、入水したはずの安徳天皇の墓がどういう訳かここ、硫黄島にあるのである。

    港の集落の一番奥、俊寛堂へ向かう道のすぐ脇に安徳天皇の墓はあった。案内板がなければまさかこれが「天皇陵」だとは思わないだろう、人の背丈ほどもない小さな墓だ。草を分けて進んだ奥には、平資盛の娘で安徳天皇后とされる櫛匣局(くしげのつぼね)の墓まであった。案内板によると、壇ノ浦で入水したのは身代わりで、安徳天皇自身は同じく落ち延びた平家一門とともにこの硫黄島に逃れてきたという。さらに櫛匣局との間にできた子が長浜氏を名乗り、今なおその子孫が島に住んでいるというからすごい話だ。

    おそらく、平家一門の誰かがこの島まで逃れてきたというところまでは本当かもしれない。そして、自分たちの正当性を誇示するために、我々のもとには安徳天皇がいるのだ、と主張したのだろうか。それにしても、俊寛がもう少し長生きしていれば、この島で安徳天皇と会っていたかもしれない、と考えるのはなかなか愉快だ。

    名所巡りを終え、民宿へと戻る前にもう一度港へと行ってみた。港の近くに、平成7年5月に建てられたばかりの俊寛の銅像があるはずだ。

    俊寛像は、硫黄島港の西端、海を望む場所に建っていた。遠くから見ると何だか変な形だ。何だありゃぁ、と近づいてみると、これがまた強烈なインパクトのあるものだったのだ。

    「おぉーい、待ってくれぇー!私を1人にしないでくれぇー!」

    右手を天に向かって振り上げ、髪を振り乱し、水平線の彼方に消えてゆこうとする赦免船に向かって、気も狂わんばかりに叫び続ける男 - 夕焼けに照らされ、赤茶色の海に向かって今にも走り出しそうな俊寛の像は、僧侶らしい落ち着きなどみじんもない、鬼気迫り、哀れみを誘い、それでいて(失礼ながら)どこかコミカルな表情をしていた。よくこんなものを建てたものだ、と像の制作者、それにこの像を村で一番目立つところに建てることを認めた島の人たちに思わず感心した私であった。


    [2]喜界島~青い海に浮かぶ珊瑚礁の島

    硫黄島から鹿児島港へと戻ったその日の夜、今度は「フェリーきかい」に乗って喜界島へと向かった。鹿児島のはるか南、約400Km彼方にあり、現代の大型フェリーでも一晩かかる距離だ。この島は人口約10,000人、硫黄島よりずっと大きな島で、鹿児島や奄美大島から飛行機も飛んでいるが、その遠さを実感するために、今回は船を使うことにした。

    寝ている間に、今朝まで滞在していた硫黄島の近くを通過したはずだ。とはいえ、たとえ起きていたとしても見えるはずはなく、さらに南へと船は進んでいく。
    朝4時30分。目が覚めたとき、船はちょうど喜界島・湾港に着こうとしていた。まだ真っ暗だ。私の他に何十人もの乗客がここで降りたが、自分の車やら迎えの車やらであっと云う間にみんないなくなってしまって、私だけが闇の中に取り残されてしまった。港は「湾」という名前の、喜界島で一番大きな集落のはずれにあるのだが、街灯も少なく、夜が明けるまで何とも心細い思いであった。

    目指す俊寛の墓は湾の町の中にあるらしいが、折角ここまで来たのだから、島じゅうを見て回りたい。喜界島は周囲50Km弱、面積は硫黄島の5倍。歩いて回るには1日ではとても足りない。バスはそれなりに本数もあるが、行ける場所が限られてしまい、また短い滞在では思うように見て回ることができない。この島を見て回るには、やはりレンタカーだろう。早速湾の町外れにある空港の近くで車を借りた。12時間で4,000円。私にとっては実に2年半ぶりのハンドルであった。

    この島には、硫黄島にはなかった開放感がある。海岸近く迫った断崖はあるが、その上に登ってみるとなだらかな丘がどこまでも続いている。島中央部の百之台公園からは、珊瑚礁の美しい海岸線が一望に見渡せ、あぁじぶんは今南の島に来ているのだとの思いを強くさせる光景だ。また、この島も自然だけでなく、歴史の言い伝えがいろいろと残る島で、硫黄島では安徳天皇だったが、喜界島でも負けじと源為朝の伝説が残る泉があったりする。俊寛の話もそうだが、2つの島は何だか張り合っているかのようだ。

    いやいや、南の島の雰囲気と久しぶりの車の運転に浮かれてしまって、俊寛を訪ねるのが後回しになってしまった。島を2周して戻ってきて、湾の町にあるはずの俊寛の墓を探したのだが、車の中からでは案内板も見つからない。仕方あるまい、と空港の駐車場に車を置いて、町の中を歩いて探すことにした。町の人に聞いて、ようやく俊寛の墓までの道順がわかったが、表通りに場所を示す案内板はなかった。これでは車の中から見つけるのは無理だ。

    「何してるの?」市街地の裏手にある運動公園にさしかかった頃、小学3年生ぐらいの男の子が話しかけてきた。「俊寛さんに会いに来たんだよ。俊寛さんって知ってる?」「何だ、俊寛か、すぐそこだよ。」見ると、俊寛像とおぼしき銅像が目の前、公園の片隅に建っていた。何ともあっけない出会いである。俊寛の墓と伝えられ、その中から俊寛のものとされる人骨などが見つかったという墓も、その横で大切に守られるように保存されていた。

    喜界島の俊寛像は落ち着いた座像で、実におだやかな表情をしている。俊寛というと僧とはいえ当時の権力闘争の中心にいた煩悩多き人物とのイメージがあるのだが、こちらの像は何だか悟りをひらいた高僧のようで、硫黄島の俊寛像のあの未練たっぷりの姿とは全く対照的だ。はるか水平線の彼方に九州最南端の開聞岳の望める硫黄島と違って、どんなに空気の澄んだ晴れた日であっても、この島から九州を望むことはできない。俊寛がこの島に流されていたなら、遠くに見ることさえできない九州の影に絶望を深くしたことだろう。その絶望を経て、この島の明るさ・穏やかさに、俊寛もこの座像のように平静心を得ることができたのだろうか。

    帰りの飛行機は、満員の乗客から悲鳴が上がるほど大揺れに揺れた。離島便の小さな機体ではよくあることらしいが、鹿児島空港に着陸したときには心底ほっとした。どんなに怖い思いをしたって、帰れるだけましだ - 背後から俊寛に、そう言われた気がした。俊寛さま、私、何か怒らせるようなことしましたかね。

    [3]伊王島~緑豊かな長崎港外の島

    伊王島へは長崎港から1日13便出ている高速艇「コバルトクイーン」で20分。距離にしてわずか10Kmと、硫黄島や喜界島に比べれば随分近くて便利な島だ。

    俊寛の孤独に想いを馳せる間もなく、あっと云う間に伊王島港に着いてしまった。

    伊王島はかつては炭坑の島として栄え、昭和47年の閉山後はその人口も急減したが、近年長崎市の目と鼻の先という地の利を生かし、観光開発によりかつての賑わいを取り戻しつつある。私が島を訪れたときも、高速艇の船着き場は観光客向けにお色直しの最中であった。港の土産物屋でレンタサイクルを借り、橋でつながっている南側の沖之島をひと巡りした後、「俊寛の墓」を目指した。

    伊王島は平地が少ないので、港に面した急斜面にへばりつくように民家が並んでいて、道もかなり急な坂が多い。俊寛の墓はこうした集落のさらに上にあって、とても自転車をこいで上れる場所ではなかった。自転車を押し押し、坂を上り切った頃には、すっかり汗だくになってしまった。

    俊寛の墓は、見晴らしの良い明るい丘の上、海峡を隔てて九州を望む芝生広場の片隅にあった。硫黄島や喜界島のような銅像は無いが、俊寛の墓と並んで立派な歌碑がある。昭和10年、この地を訪れた北原白秋が俊寛を憐れんで詠んだ長歌の碑である。800年の時を経て、白秋の思いはどのようなものだったのだろうか。

    平家物語でも能の謡でも、俊寛が流罪にされた島は「薩摩」の鬼界ヶ島とされている。そうなると薩摩とはまるで方向違いの伊王島は分が悪いように思われるのだが、その点は次のように説明されている。曰く、平教盛(清盛の弟)が3人を流刑地に送る際、自分の荘園が肥前嘉瀬庄にあったので、仕送りに便利な伊王島に彼らを流し、清盛へは「薩摩の硫黄島に流した」と報告したということらしい(伊王島町教育委員会の碑文より)。

    それにしてもここから望む九州はあまりに近い。これでは「せめては向かひの地までなりとも」と船にすがりつく俊寛の姿を思い浮かべ難いのだが…。しかし、「鬼界ヶ島」というと硫黄島や喜界島のような絶海の孤島のような印象があるのは確かだが、私たちの知る「鬼界ヶ島」が後世の脚色により哀しい部分を強調されたものと考えれば、俊寛たちが流されたのは案外こんな島だったのかもしれない。

    島の北端、伊王島灯台まで足をのばし、伊王島港へと引き返してきた。帰りはずっと下り坂、なんともラクチンである。船の待ち時間に港の土産物屋をのぞいてみたら、「俊寛もなか」なるものまで売っていた。まったくもう…と思いながらもやっぱり買い込んでしまう私自身にちょっぴりあきれつつ、やがてやってきた帰りの船でこの旅の最後の訪問地、伊王島を後にした。


    一人残された俊寛は、赦免の報を聞くことなく、失意のうちに翌治承3年(4年との説もあり)37歳でその一生を終えたという。徳島県鴨島町の玉林寺には、俊寛を残して島を去った平康頼が俊寛の霊を弔うために納められた観音像が残っているそうだ。

    俊寛が遂にそこから出ることができなかった鬼界ヶ島、現在では3つの島それぞれが、うちこそは本物と自信を持っているようだが、本当のところは永久にわからないかもしれない。私も3島を巡ったが、この島こそと確証を持てるような発見などできるはずもなく、それぞれまったく違うカラーを持ちながらも、どの島をとってももしかしたらここなのかなぁ、もしかしたら俊寛は3人いたのだろうか、とさえ思いたくなる島々であった。

    平家物語は歴史を後世に伝える役目を果たしたのと同時に、それ故にまた多くの謎を現代に残したようだ。聞くところによると、安徳天皇が逃れたという里も日本中にいくつもあるらしい。今度は安徳天皇探しの旅に出ようか。その時にでも硫黄島は是非再訪しよう…。今度はそんなことを考えている。

    最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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