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    石神井公園ふるさと文化館の企画展「石神井公園-池のほとりに育まれた自然と歴史-」に行ってまいりました。池の一部が遊泳場になっていて水泳大会が行われていた頃の三宝寺池や、そもそも池などなかった時代の石神井池など、令和4年の風景とはまるで異なる昔の様子が学べてなかなか興味深い企画でしたが、なかでも面白かったのが、石神井公園は脇役に過ぎない、こちらの新聞記事。

    理想の新別荘地決る
    空前の大盛況を極めた決選投票
    - 國民新聞 大正5年4月8日

    昔から、こういうランキング企画、あったんですね。
    既に有名な別荘地の人気投票ではなくて、いわば「別荘地の新人王」を読者投票で決めよう、という企画のようです。

    「一万二万と運ばれる山の如な投票 喜悦と失望との一大悲喜劇!」
    「各地方の代表的有志はドシドシ入京し本社を中心として形勢を観望しつつ刻々に迫る運命を…」

    開票の様子を見守り、地元がランクインするかと一喜一憂する人々の様子が目に浮かぶようでなんとも微笑ましいです。時代は違いますが、ゆるキャラグランプリとかB-1グランプリとかで盛り上がる人々と似たような感じだったのでしょうかね。

    で、何が面白かったのかというと、そこにランクインしている「新」別荘地の面々。
    現代の常識と、あまりにも違いすぎる!

    というわけで、カウントダウンしてまいりましょう。
    なお、この調査の対象は「東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、福島、栃木、群馬、長野、山梨、静岡」の1府(現在の都)10県とのことで、全国版のランキングではございませんので悪しからずご承知おきくださいませ。

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    45位-21位

    まずは一気にまいりましょう。
    記事では「1票」しか入らなかった別荘地まで、徹底的に結果公表されているのですが、下位の方は文字がつぶれて見えないのが多いのと、ここで全部書き並べると膨大できりがないので、はっきり地名が確認できる45位(304票)からまいります。

    ちなみに「1票」の新別荘地(22か所)の中には「日光」「那須」「大磯」など、当時既に別荘地として栄えていたビッグネームもちらほら見られます。「新人王決定戦なんだってば」と突っ込みたくもなりますが、趣旨を勘違いしてベテランに投票してしまう人がいたのでしょうね。

    45位304安代温泉長野電鉄湯田中駅近くの温泉郷
    44位307幕張町千葉の幕張ですね
    43位384須賀村東武伊勢崎線の和戸駅あたり
    42位491野沢温泉北信濃。野沢菜のふるさと
    41位635中野村山中湖のことです
    40位721姉崎町JR内房線の姉ケ崎駅あたり
    39位1000森ヶ崎現在の最寄駅は東京モノレール昭和島
    38位1026大貫村JR内房線の大貫駅あたり
    37位1058山王村取手市北部。小貝川のほとり
    36位1264松戸町皆さんよくご存知の松戸!
    35位1411大宮町皆さんよくご存知の大宮!
    34位1451内郷村津久井湖の西(当時、まだ湖はない)
    33位1641今諏訪村南アルプス市東部。釜無川のほとり
    32位1686四ツ倉町JR常磐線の四ツ倉駅あたり
    31位1780四万温泉群馬の温泉郷
    30位1832精進富士五湖のひとつ、精進湖
    29位1824箱根小涌谷解説不要ですね
    28位2000松本市当時の「市」では唯一ランクイン
    27位2052長者町外房の景勝地その1
    26位2293御宿町外房の景勝地その2
    25位3146佐貫町JR内房線の佐貫町駅あたり
    24位3103曽我村JR御殿場線の上大井駅あたり
    23位3338湊町茨城県の那珂湊のこと
    原本では「2338票」だがおそらく誤植
    22位3511流山町千葉の流山ですね
    21位3900川崎町静岡県牧之原市静波あたり

    「中野村(山中湖)」や「精進湖」「箱根小涌谷」など、「確かに別荘地にふさわしいですよね」という名前が散見される一方で、「松戸」や「大宮」「流山」等々、現代の目ではとてもとても別荘地として名前が挙がるとは思えない地名もちらほら見受けられます。

    なかでも異彩を放つのが「森ヶ崎」。現在の地名でいえば「東京都大田区大森南」。
    23区内じゃないですか!

    調べてみたところ、このあたりが東京市に編入されたのは昭和7年のことで、当時はまだ「荏原郡大森町」だったのですね。かつては海水浴場(明治24年開設)や鉱泉(明治32年発見)など、臨海行楽地として賑わっていたのだそうです(参考:三井トラスト不動産のWebサイト)。今ではすっかり東京の都市圏に飲み込まれてしまいましたが、当時はきっと風光明媚な土地柄だったのでしょうね。

    20位-16位

    続きまして、惜しくもトップ10入りを逃した新別荘地の面々です。

    20位 3963票 大原町

    外房の大原ですね。JR外房線(当時の房総線)が大原まで開通したのが明治32年。いまでも都会から海へ向かうのはわくわくするものですが、蒸気機関車に牽かれて1日がかりでたどりついた海は格別だったことでしょう。
    海沿い両隣の長者町、御宿町もランクインしていますし、当時の東京人たちの憧れのエリアだったのでしょうかね。

    19位 4568票 富士見村

    JR中央本線の富士見駅あたり。いまの富士見町ですね。
    以前お世話になった方の別荘が富士見にあり、泊まらせていただいたのを思い出しました。北に八ヶ岳、南に富士山の絶好のロケーションで、確かに別荘地として当時から期待されたのでしょうね。

    18位 5595票 青梅町

    東京の青梅がランクイン。確かに御岳渓谷とか魅力ですよね… と思ったら、御岳周辺が青梅市に編入されたのは昭和30年で、JR青梅線でいうと日向和田駅までが当時の青梅町のエリアでした。とはいえ、当時の青梅は今よりずっと鄙びていたでしょうから、東京から一番近い山暮らしということで、別荘を構えたいと思う人が多かったのも納得です。

    17位 6034票 久留米村

    出ました~うちの生活圏内!
    いまの東京都東久留米市です。東京にお住まいの方ならわかると思いますが、フツーに通勤圏です。令和4年の常識で、東久留米に別荘とかあり得ないです(笑)

    でも、大正5年当時は今とは全く違う風景が広がっていたのでしょうね。武蔵野鉄道(今の西武池袋線)の東久留米駅ができたのが大正4年のことですから、ちょうど注目を集めていたエリアだったのかもしれません。

    折角ですから、別荘を建てたくなる(かもしれない)東久留米市内の写真を1枚。

    黄菖蒲咲く水辺のカワセミ(落合川水生公園
    16位 8217票 福岡村

    つくばエクスプレス「みどりの駅」から西へ2km、小貝川の左岸にあった村です。
    知らなかったのですが、小貝川に設けられた「福岡堰」は関東三大堰の一つに数えられるのですね。享保7年(1722年)につくられ、明治19年に改築されたそうですので、大正5年当時はちょっとした見どころだったのでしょうか。

    時代は下り、平成18年には「福岡堰さくら公園」が開園しています。「別荘地」として有名にはならなかったものの、地元の憩いの場として親しまれているようですね。

    15位-11位

    さて、いろいろ調べておりましたら、この調査の解説書が見つかりました。
    国立国会図書館デジタルコレクションより「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)。
    15位以上の「新別荘地」が論評されていますので、ここからは各別荘地ごとに、その土地の魅力がわかる部分をちょっとずつ引用させていただきます。
    (読みやすいように、句読点や漢字、仮名遣いを一部手直しさせていただいております)

    15位 10491票 沼津町

    目前に広がる駿河湾と、振り返れば富士の高嶺。確かに別荘地としては理想的で、ここに別荘を構えたいと思う人が多かったのも理解できます。

    沼津の気候は夏涼しく冬暖かく温度も風速も最も人体の健康に適しているので楊原村には沼津御用邸さえ設けられている。殊に海岸一帯数里に亙って千古の松並木矗々として聳え多量のオゾーンを発散し自然の大気を清浄ならしめている。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    おぉ~絶賛ですね。
    これを読めば、確かに別荘を建てたくなるかも。

    それにしてもオゾーンって(笑)
    いまだったら「フィトンチッド」とか「マイナスイオン」とか書くところでしょうかね。

    14位 14112票 石神井村

    またまた私の地元からランクイン!
    石神井ですか~。自宅から自転車で10分ですよ。

    武蔵野鉄道池袋駅から僅に三十分で到着し得る石神井村は、東京の近郊稀有の好別荘地である。交通の上に於ても池袋石神井間は毎日八回宛往復の利便がある。武蔵野鉄道は又景勝の地を開拓して、其沿線を遊覧地とするの計画がある。これに対して村の有志者青年会はさらに発展すべく、村内絶勝と目すべき三宝寺池公園の新設に努力中である。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    確かにね、木立の向こうから朝の陽ざしが差し込む、日の出直後の三宝寺池を散歩していると、信州かどこかの湖畔のリゾート地に来たかのような趣があるんですよね。騙されたと思って、是非一度お出かけくださいませ。
    ただし、人の少ない早朝じゃなきゃだめなんです。始発電車でどうぞ。

    それにしても、「池袋から石神井まで、1日8往復もあって便利!」って…。
    いまでは池袋から急行で8分のところ、30分かけて武蔵野の畑のなかをガタゴト揺られてゆく石神井。いやぁ、乗ってみたいなぁ。現代の感覚とあまりに違う長閑さで、かえってなんだか目が回ってしまいそうです。隔世の感とはまさにこのことですね。

    近時東京の富貴者の石神井に別荘を設けんとするもの漸く多くなり、某侯は豊田園を企望し、園内は坪五円、園外若干の森林地は坪三円で凡そ売買の議纏まらんとしたが、実地探査の際某侯代理者は園内より寺院の棟を正面に見下ろすが気に入らずとて遂に破談になったと停車場付近で噂している。果たして破談の原因が那辺にあったかは知る由がない。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    あらら...何があったんでしょうね。
    豊田園というのは、地元の有力者が手掛けた、現在の石神井池附近にあった庭園のことですね。風光絶佳、つつじの名所として親しまれたのだそうです[参考:練馬区歴史資料デジタルアーカイブより練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年)]。もし豊田園が某侯の手に渡っていたら、その後の石神井はどう変わっていたのでしょうね。

    それでは最後に、別荘を建てたくなる(かもしれない)石神井の写真を1枚。

    アオサギの秋(三宝寺池
    13位 28363票 臼田町

    長野県東部、今は佐久市となった臼田が13位にランクイン。千曲川が佐久平へと流れ下る扇状地の上に位置し、信州小諸と甲州韮崎を結ぶ佐久甲州街道の宿場町として栄えた土地柄です。

    北には画けるが如き浅間の噴煙を望み、南には朝な夕なに幾変装する八ヶ岳の秀嶺を仰ぎ、高山植物で知られた蓼科山は西方に北佐久諏訪二郡の境をなして聳え、千曲川は南方遥に見ゆる金峰山國師嶽等甲武信の諸連山に源を発し、臼田町の東を北流し、臼田の風光を美化し且つ臼田産業の基礎をなして居る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    今でも千曲川に架かる臼田橋からは、川の流れの向こうに雄大な浅間山が望めますので、ここぞ新しい別荘地、と投票した人の気持ちはとてもよくわかります。

    此の広大な原野は緩勾配を以て漸次にしに高まり、遂に蓼科山に達するものであるから、高原中には海抜三四千尺位の好別荘地も少なからず軽井沢などに比するも夏季の避暑地として遜色なき場所多けれど、何分にも交通機関なき為め開発することが出来ない
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    交通機関なき為、とありますが、実はこの企画の直前、大正4年12月に佐久鉄道(現在のJR小海線)が開通しています。便利になりましたので皆さん来てくださいね、というアピールもあってたくさんの票が投じられたのかもしれませんね。

    12位 31268票 鴨川町

    大原町、御宿町、長者町が名を連ねた外房エリアの「新別荘地」ですが、そのトップは鴨川町でした。

    鴨川と東京との交通は東京湾汽船会社の定期航路がある許りで、今日の処では便利とは云ひかねる。若し陸路に依れば北条館山から人力車馬車自動車の便があり、保田からも人力車がある。又汽車が勝浦に赴き、馬車或は人力車で行けば道程七里の間は風光絶佳の境故、時の移るを忘れて案外容易に達することが出来る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    大正5年当時、鉄道はまだ安房鴨川まで届いていません。東京から行くのも相当な時間を要したはずですが、馬車や人力車でのんびり向かうのも旅の楽しみの内だったようですね。

    それにしても、保田から人力車ですか。30km近くはありますよ。しかも標高150mの横根峠越え。舗装もされていなかったでしょうに。
    現代の人力車は観光地の町中でしか見ないので勘違いしてしまいますが、大正の頃は町から町への主要な交通手段だったのですよね。当時の車夫の脚力には想像を絶するものがありますね。

    鴨川町の俗謡に現はれて居るやうに鴨川は実に理想的転地療養地で、また避暑地避寒地である。気温は東京に比し夏は十度低く冬は十度高い。東に澎湃たる太平洋を控へ、北及び西に房総の連山を負ふ為めに自然気温が調節されるからである。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    夏は十度低く冬は十度高い、というのはやや大袈裟ですが、大正5年の東京勝浦(残念ながら鴨川のデータは見当たらず)の気温を比較すると、東京に比べて夏は涼しく冬は暖かい、というのは間違っていないようです。夏も冬も、海を眺めてのんびり過ごすには最適だったのでしょうね。

    11位 33278票 公津村

    京成線で、成田の1つ手前に「公津の杜」という駅がありますが、あの公津です。
    エリア的には駅のあたりだけでなく、もうすこし北西、印旛沼のほとりまでが旧公津村となります。

    関東第一の大湖印旛沼は村の西面に白波を湛へて字八代の花内台、字台方の江川台及び字北須賀の甚兵衛渡しの絶景を造出し、到る処の丘陵には松樹亭々として聳え、好別荘地に乏しくない。土地高燥で東西に筑波富士の秀峰を望み、遠く上武野三州の群嶺を仰ぎ、近く印旛沼及び大利根川の帆影を眺る絶景地である。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    素敵な情景が浮かぶ紹介文ですが・・・ちょっとばかり褒めどころが違う気はしますね(笑)
    東西の筑波富士も上武野三州の群嶺も、ここからでは地平線の際にほんの小さく見えるだけです。「土地高燥」(高所にあって乾燥している)というのはこのあたりに点在する丘のことを言っているのでしょうが、さすがに印旛沼の褒め言葉としては的外れな気がします。

    先年千葉県印旛郡公津村字八代の有志五人、日本漫遊の膝栗毛を思い立ち、東海道五畿内山陽四国と打ち廻りて名所舊蹟を観、産業を視察して帰り扨て天下の所謂名所なるものと公津村の風光を比較せしに、須磨明石或は和歌ノ浦などホンの名許りにて到底公津村の山紫水明に及ぶべきにあらずと衆議一致し「我等の故郷は日本到る処の景勝地よりも勝景なり」と断じ、國民新聞の別荘地投票に参加するに至ったのである。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    どうやら公津は、別荘地として知られていた訳でも、別荘が建ち始めていた訳でもなく、地元有志が「我が故郷をランクインさせたい」と3万票を超える組織票を投じたものの、わずかにトップ10入りを逃したということのようです。ゆるキャラグランプリで、市役所総出で組織票を入れてしまった某市が話題になったことがありましたが、それと似たようなことが大正時代にもあったのですね。

    10位-4位

    少々長くなってまいりました。いよいよトップ10です。

    10位 38212票 沓掛

    沓掛、といわれても「?」な方も多いと思いますが、旧中山道の沓掛宿、現在の地名は「中軽井沢」。そう聞けば皆さん納得ですよね。

    軽井沢には内外人の別荘が到る所に建築せられて地価も比年騰貴し、過般売買された別荘地の如きは買主の附け値坪一円三十銭で、売主は驚いた位に高くなって居るが、沓掛になれば甚だしく趣を異にして、現に別荘のあるのは鉄道院の本間英一郎氏、真珠屋の御木本幸吉氏のもの許で、故桂公、故雨宮敬次郎氏の別荘も淋しく残って居る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    故桂公というのは桂太郎公爵のことでしょうかね。
    この当時、軽井沢の西4kmにある沓掛はまだ「中軽井沢」とは呼ばれていません。沓掛には明治の頃に有力者の別荘がいくつか建ったものの、大正5年のこの当時は寂れてしまっていたようです。発展するお隣の軽井沢を横目に、わが沓掛もと期待する人たちが投票したのでしょうか。

    沓掛が軽井沢に優って居るのは其滾滾として湧出する清水の量の多いことである。沓掛には多量の水かがあるから、如何なる水面娯楽場でも設け得られるが、軽井沢には夫れが甚だ困難である。又沓掛には温泉湧出の希望があり行々は春夏秋冬何れの時でも遊覧客を招来し得る見込みがあるが、軽井沢にはその希望が全くない。(中略)湯川沿岸には必ず高熱の温泉脈のあるは今や疑う余地がない。若し之が発見さるねば沓掛は高原避暑地としては軽井沢に対抗し、温泉地としては箱根や塩原と競争するを得るのである。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    やがて沓掛は、後に西武グループの創始者となる堤康次郎が開発を手掛け、中軽井沢という新たな名前で発展していきます。そのあたりの経緯は様々なサイトで解説されていますから、ご関心のある方は「堤康次郎」+「沓掛」あたりで検索してみてくださいませ。

    9位 42129票 白子村

    千葉の九十九里の白子かな…? と思ったら、まさかの和光市でした。
    私の家から自転車で10分。またまた私の地元ではないですか。

    白子が別荘地或は遊覧地として尤も宜いのは清冽水晶の如き大湧水と、脈々として尽くるなき矢川の波毛である。白子の波毛は概ね南向きで、到る処に住宅や別荘を構えることが出来る。近来城山付近の土地を希望するもの東京方面に続出し、売買価格は漸次昂騰に向かいつつある。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    武蔵野台地には「50m崖線」と呼ばれる湧水の多いラインがあり、その北東側の湧水を集めて流れ下るのがここでいう矢川、現在の白子川です。今でも練馬区の大泉井頭公園や清水山憩いの森などに湧水が見られますが、昔は水量が多く方々に滝も流れ落ちていたのだとか。大正5年当時はまだ東京への通勤圏ではなく、都市化も始まっていませんから、渓流の水音と鳥の声を聴きつつ晴耕雨読するにはうってつけの場所だったのでしょう。

    幾多渓川の中、矢川は保谷村の井頭の水源を有し、大泉村を経て上練馬赤塚村と白子村との村堺をなして荒川に濺いで居る。上練馬村の加藤豊次郎氏は矢川の波毛上に豊楽園と云ふ遊園地を設けて公開して居る。園内の面積は約二十坪で頗る風光に富んで居る。(中略)十町村中丘陵の最も起伏して居るのは新倉村で、到る処に好別荘地が散在し、川越街道に沿ふ地方には東京の富豪連に所望されて居る土地が少くない。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    わが地元ながら豊楽園というのは初耳です。豊島園とは違うんですよね。
    調べてみたら、今の稲荷山憩いの森(練馬区土支田)のことらしいです。豊楽園の名を刻んだ大きな石碑も残っているようですが、うーん、覚えがないですねぇ。何度も行ったことがあるのですが。

    というわけで、自転車で家から15分。改めて行ってまいりました。

    豊楽園の碑(練馬区稲葉山憩いの森)

    おぉ、予想以上にでかい。
    確かにありましたね。豊楽園の碑。
    かつての豊楽園がどんなところだったのか、裏側に回って碑文を読みはじめたのですが… 蚊がうようよ。あっという間に腕や顔に群がってきます。うにゃ~退散!(泣)
    蚊の出ない季節になってから、改めて確かめに来ることにしましょう。

    【2023年2月12日追記】
    再訪し、碑文を確認してまいりました。一部抜粋しますと
    「一般公衆の行楽地と成さんとし、桜楓樹を交植し、君の旧宅趾に鎮斎したりし稲荷神社を守護神として本園に移転し、更めて豊楽園と命名せり」
    とのことで、桜や紅葉の楽しめる風光明媚な公園だったようですね。
    全文は長いので別ページに記載します。ご関心のある方は読んでみてください。→豊楽園の碑文

    川越街道の宿場であった白子村は、昭和18年に新倉村と合併して大和町になり、さらに昭和45年に和光市となって今に至ります。市内の和光市駅は東京メトロ有楽町線・副都心線の始発駅で、都心へ座って通勤できるので住宅地として人気ではありますが、現代の和光に別荘を構えようという人は… いないでしょうねぇ、さすがに。

    別荘を建てたくなる(かもしれない)和光市の写真、ここにも貼っておきましょうかね。

    桜に遊ぶコゲラ(和光樹林公園)

    8位 50394票 浦和町

    なにかと比較されることの多い浦和と大宮ですが、浦和が8位、大宮は35位。新別荘地ランキングでは浦和の圧勝ですね。イマドキの価値観からして「ここに別荘などありえない」という点では共通ですが(笑)

    今昔マップ on the web で大正期の地図を見ると、当時の市街地は浦和駅西側の中山道沿いのみで、少し歩けば農地が広がっていたようです。東京から手軽に行ける田舎暮らし、ということで当時の感覚では別荘地にもふさわしい、のどかな農村だったのでしょう。

    東京浦和間の交通は、東京横浜間或は東京市川間の交通に亜ぐ便利を有して、殆んど東京の市内と選ぶ処がない。浦和から東京に赴くには朝は午前四時五十分発を最初とし、夜は十時二十三分発を最終とし、発車回数は三十回ある。(中略)而して両地間の交通時間は僅々三十分乃至四十分である。又浦和町志木町間及び浦和町安行村間には毎日馬車が往復している。浦和が東京の郊外生活地或は別荘地として最も有望視される第一の理由は此の交通機関の整備にある
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    なるほど。いや、ちょっと待って。
    便利なのはよくわかりましたが、そういうことであればなおさら「別荘地」ではなくて「通勤圏」ではないのでしょうかね。「別荘」に求めるものが大正人と令和人では違う、ということかもしれませんが。

    浦和町を理想的郊外生活地として推挙するのは、浦和は東京近郊稀に見る健康地であるからである。浦和町は海抜二百四五十尺の鹿島台上に建設された市街地で、荒川や利根川がいかに氾濫を逞しうしても決して浦和町のみは浸水されることはない。其上地盤が堅牢で無量の地下水を蔵し、空気は極めて清澄である。加之近年下水道を開鑿し、今や工事将に竣らんと為て居るので、伝染病患者は殆んど発生することがなくなった。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    明治30~40年代は赤痢、コレラ、ペスト、天然痘といった伝染病が次々に流行し、結核も猛威を振るっていたといいます。転地療養という言葉を耳にする機会が今よりずっと多かったであろう当時、「健康地」というのは別荘地に欠かせない条件だったのでしょうね。

    別荘を建てたくなる(かもしれない)浦和の写真。あるかな…と探してみたものの、手持ちの写真はイマイチでした。こちらでご容赦を(笑)

    ホシゴイの主張(白幡沼)

    7位 55425票 青堀村

    千葉県の東京湾沿いはここまで佐貫町、大貫村、姉崎町、幕張村がランクインしましたが、それらの得票を全部足しても5千票余。青堀はなんとその10倍の得票を得て内房でトップ、のみならず千葉県全体で1位です。

    大正四年一月開通した上総湊線の為めに青堀村は俄に発展の機運に向かい、避暑地避寒地或は別荘地としての価値を大に増した。両国駅からは約五十哩で三時間半を費やせば容易に達し、横浜からは海上五里、発動機船で二時間で富津港に、蒸気船で同じく二時間で木更津港に着く。富津或は木更津から青堀までは一里或は三里で徒歩でも人車でも一時間以内に到着し得る水陸交通至便の土地に位して居る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    この調査の前年に、鉄道が青堀まで延びてきたばかりだったのですね。さらにその少し前、大正2年には温泉も湧出したのだそうです。そうした新たなできごとがあった直後ということもあり、青堀を別荘地にとの期待があったのでしょう。

    人見山の対岸から青堀停車場西方を経て富津町に至る一帯の高地には松樹生い繁り、西南に近く海を望み、其海を隔てて武相の青峯翠巒に対して居る。低き相模の山を越えて足柄の群峯が遠くに霞み稍其右手に当り富士が見える。此地から仰ぐ富士は上総富士と稱して富士萬景中最も賞美に値するものだと村人は誇って居る。天晴るれば横浜港の千帆萬船は云ふに及ばず、川崎附近の工場、横須賀の巨艦までが能く見える。殊に夜の漁火は荘観で、此の高地からは一眸の中に収めることが出来る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    今では埋め立てられ、工業地帯に姿を変えてしまった青堀の海岸も、当時は波静かな遠浅の砂浜。海を隔てて富士の高嶺を望み、都会の喧騒を忘れてのんびり過ごすには、青堀あたりはうってつけだったのかもしれませんね。

    6位 58455票 塩山

    山梨県内でランクインしたのは、ここ塩山と、30位の精進(1832票)、41位の中野村(635票)の3か所。富士山や富士五湖、八ヶ岳、南アルプスなど、魅力的な絶景の地が数々あるなかで、圧倒的な県内最多得票を得たのが塩山というのは少々不思議な気がしますね。

    新宿塩山間は僅かに六十六哩を隔てるばかりであるが、隧道又隧道の山又山を突き抜けて行く汽車であるので速方も甚だ鈍く約五時間を要して僅に達し得る現状である。其上汽車の発車回数も少く上下共漸く六回ずつで兎角面白からぬことのみが重なって居るため、塩山は東京人の別荘地としては聊か不向きの点がないでもない。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    いまでは特急「かいじ」で新宿から塩山までわずか1時間半のところ、当時は汽車で5時間もかかったのですね。解説では少々ネガティブな評価になっていますが、とはいえ薄暗い山中を長く揺られてきた分、塩山の手前でぱっと広がる甲府盆地の景色には感動もひとしおだったことでしょう。

    そそり立つ千山万嶽の上に敢然として雄姿を示す白妙の富士は塩山から正南に仰ぐことが出来る。塩山には別荘を建築する上に於て甚だ便利が多い。塩山の標高は約一千七八百尺で神金松里等の村に行けば別荘向きの地所で二千尺三千尺あるいは四千尺の土地に乏しくない。塩山附近二千尺の土地では蚊の害火とり蟲の災いが少なくないが尠くないが、三千尺四千尺の地方には蚊帳を要せぬ場所が多い。遠山近岳に移り行く雲の荘観を見るのは塩山別荘地の独占する処である
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    ほかにも、650年の歴史を持つ塩山温泉郷や、武田家ゆかりの恵林寺、高台からは甲府盆地を見下ろす絶景など、魅力にあふれた土地であることは確かです。そんな塩山をPRしたいという人たちの思いが、6位という結果につながったのでしょうね。

    5位 65709票 大宮町

    35位にも「大宮町」(今のさいたま市大宮区)がありましたが、こちらは今の静岡県富士宮市のことです。

    山容水態自ら清明の気に包まれたる大宮が景象美を説くまへに、土地が如何に人間の健康に適せるかを示さねばならぬ。(中略)斯くも出生超過を招く原因はいふ迄もなく土地空気の適順によるのだ。極暑九十六度極寒二十八度を超えざる日常の生活は正に産児力の大を致す真因であらねばならぬ。今や学齢児童が年々増加して教育費は膨大し教舎は狭隘を告げ、建増しの議が町会の大問題となりつつある。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    大宮町に限らず、この本でたびたび出てくるのが「生まれる子供が多く、死ぬ人が少ない=健康地である=別荘地にふさわしい」という言説です。いまどきのリゾートや別荘地のPRでは、まず見かけない論理展開ですよね。当時は急速に近代化が進んでいたとはいえ、衛生的な生活に欠かせない電気冷蔵庫、合成洗剤、下水処理場などはまだ普及しておらず、伝染病もたびたび流行しています。大正時代と現代とでは、人々が「別荘地」に求めるものが違う。こうした記述からも、それが見てとれますね。

    大宮口の誇るべきは登山しつつ常に澎湃たる東海の怒涛を俯瞰し「田子の浦に打出て見れば真白にぞ富士の高根に雪は降りける」の心持を痛切に味わうことができるからである。富士と東海と直接に対照し得るは大宮口許りの有する特権である。更に大宮口の長所とするは登山の途中で順次変化し行く植物体が自然に温帯亜温帯亜寒帯寒帯と連続することである。大宮口の森林帯は木曽の森林以外には比較するもののない壮観を呈して居る。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    ここは誉め言葉には事欠かないでしょう。間近にそびえる富士に、豊富な湧水、荘厳な富士山本宮浅間大社。うん、ここに別荘を持ちたくなる気持ち、納得です。

    4位 68901票 箱根仙石原

    箱根仙石原が4位に入りました。ここは現代的な目線でも納得の別荘地ですね。

    箱根仙石原は種々の方面から見て誠に理想的別荘地で進んで遊覧地ともなさんとしている。未だ交通の開けない十年以前は仙石原は単に二三好事者が地図上の標高を計って涼しそうだなと徒に批評したのみで其村人さえ之が今日世界的別荘地などになろうとは更に気付かなかった。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    わが国最初の高原避暑地宮ノ下と箱根一明治期を中心に」(1994年 斎藤功氏)によると、明治期以来、箱根の別荘は宮ノ下、次いで芦ノ湖畔に多かったようです。「島田藤吉らと仙石原温泉」(箱ぴた)によると、大正の初めごろというのは、仙石原の観光開発がまさに始まらんとしていた時期のようですので、島田氏のような仙石原の開発に携わった人々が、かの地の発展と知名度アップを願って投票したのでしょうかね。

    最近さらに改修を行なって馬車が通うようになった。無論それは護謨輪の何のという贅沢なものでなく、ガタゴト、ガタゴト軋りつつ喇叭で人を除ける趣味あるもので、賃銭も亦低廉四人乗が宮城野橋から、一円廿銭である。春には桜雲靉靆たる小塚山、秋には満山の紅楓を眺めて、暢気な話をしながら馬車に揺らるるも面白い
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    いいなぁ~。このガタゴト馬車乗りたい(笑)
    どこに行っても車ばかりの現代とはまるで違う、鄙びた箱根がそこにはあったのでしょう。簡単に目的地にたどり着けてしまっては、都会の喧騒を忘れる暇もありません。のんびり、ゆったり。道中の楽しみも「理想の別荘地」の大切な要素であるように思います。

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    3位ー1位

    さて、いよいよTOP3です。

    3位 70497票 飯能町

    3位には飯能がランクイン。
    市街地のすぐ近くで山遊び、川遊びが楽しめる素敵な街です。ここまで出てきた石神井、和光、東久留米などに比べれば、納得感はありますね。

    つい先日も天覧山から多峯主山、吾妻峡、飯能河原とぶらぶらお散歩してきましたが、このあたりにセカンドハウスを持って週末ごとに遊びに行けたら楽しいだろうな、などと想像してしまいました。

    遊覧地として見た飯能は甚だ努力してはいるが、未だ完全の域に達したとは到底云ふことはできない。天然物許りは申分なく揃って居れど人工の程度が足りない。又客を迎える設備も不足している。従って遊覧客をして楽しく一日を暮させることはほとんど不能といっても差支えはない。且つ武蔵野鉄道が今日の如く起点を池袋停車場に有して市内電車との連絡は山ノ手電車を用いなければならぬ現在にあっては、飯能は云ふに及ばず武蔵野鉄道沿線諸駅の発達は意想外に後れるものと覚悟せねばならぬ。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    ん?かなり辛口ですね。
    つながる先が池袋では発展は遅れる… この低評価、西武線沿線民としては少々悲しいものがありますが、まぁ当時の東京の人の認識はそんなものだったのでしょう。その後の歴史を見ても、そういう面があったことは否定できませんからね。

    然しながら自然の山懐に純朴な景象と相親しみ得る点に於て飯能は蓋し其最たるもので、必ずしも新別荘地たるの資格に乏しいとは信ぜられぬのである。偶ま豆腐屋へ一里酒屋へ三里の侘住居の愛さるる所以である。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    よかった、ちゃんとフォローしてくれました(笑)
    「豆腐屋へ一里酒屋へ三里の侘住居」とは面白い表現ですね。ちょっとした買い物をするにも不便だけれども、それがまた良いのだということでしょうか。田舎暮らしにあこがれる人が求めるものは、今も昔もそれほど違いがないのかもしれませんね。

    2位 80897票 保谷村

    2位はなんと西東京市保谷。
    いやぁ、これは同じ西武池袋線沿線といっても飯能とは違うぞ。納得いかん(笑)

    保谷を中心とする武蔵野一帯の地は日本国中並ぶものなき大平原で、北に秩父の峰、西に武相の連山及び富士を望む外、南も東も只茫々たる野原の続き合で土地の面積は測り知れぬ程広いから、如何に多くの土地売買が行われても地下の激騰激落の恐れが少なく、郊外生活希望者の土地を得るには甚だ好都合である。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    私の知っている保谷と違う(もういっかい笑)
    確かに秩父、武相連山、富士山は望めますけどね。「日本国中並ぶものなき大平原」「南も東も只茫々たる野原の続き合で土地の面積は測り知れぬ程広い」との評はびっくりです。建物が少なかった時代はそんな風景が見られたのでしょうか。今の保谷からは想像がつきません。

    それにしても、人口3千人台(大正9年調査)の小さな村に8万票。お隣の久留米村が十分の一以下の6千票、田無や小平、清瀬などは圏外。保谷だけがそれほどとびぬけて人気ということはないでしょうに。
    膨大なる「組織票」と「複数投票」の匂いを感じてしまうのですが…?

    武蔵野鉄道が開通して既に1年を経過したが、保谷停車場の名はあまり世間に現れていない。
    土地の素封家高橋源太郎氏は痛くこれを慨して、土地発展のために献身的努力を尽くし、保谷駅をして沿線第一の貨物停車場たらしむるに至らしめ、さらに進んで國民新聞が募集した別荘地投票にも独力八万余票を投じ、遂に二等を贏ち得て土地の紹介に尽くすところ少なくなかった。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    ちょっと待って。
    え?
    つまり、高橋さんが一人で8万票入れたってこと?

    東京の人は兎角別荘といえば海岸か高山を選ぶ癖があるが、医師のいうところに聞けば、平原でも空気や水の関係さえ善良であれば結構別荘に適する。この意味で豊多摩郡の井荻村には東京の学者たちがたくさん別荘を築いている。井荻が別荘に適するなら井荻以上の健康地でかつ東京との交通至便なる我が保谷村は恰好の別荘地なり、投票するに何の顧慮もあるべきでないと固く自信して、高橋氏は保谷村を別荘地として推挙したのであると云ふ。生活地としても別荘地としても保谷は全くの処女地で、今日はただ東京人の注意をこの村に引けば足るのである
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    あちゃー。言っちゃいましたね(笑)
    つまり、保谷村は別荘地でも何でもないけれど、保谷押しの高橋さんがはがきを8万枚書いて送ったと。
    素封家(おおがねもち)だそうですのでバイトを100人雇ったとして、1枚はがきを書くのに3分かかるとすれば、1日8時間、5日で8万枚。うん、できなくはないかな。

    ひょっとしたら、手書きのはがきですらなくて、同じ内容で8万枚印刷して出したのかも。当時でも、素封家さんならできますよね。それでも有効票になってしまうぐらい、ゆる~い調査だったんじゃないかと思えてきました。
    それでいいのか、國民新聞よ(笑)

    別荘を建てたくなる(かもしれない)保谷の写真、ここにも貼っておきますね。

    ハクセキレイの小径(西東京いこいの森公園

    1位 112053票 白河町

    栄えある第1位は、唯一の10万票超え、福島県の白河でした。
    うん、自然も歴史も魅力的だし、東京から鉄道で行けるし、「那須の次は白河だ!」的な空気もあったのでしょうし、まぁ納得かな。
    おめでとうございます!拍手~!!!

    上野駅から急行或いは普通列車で略ぼ四時間半以上七時間を要して到着し得る白河町は東京人の別荘地域或いは日帰りの遊覧地としては多少遠きに過ぐる感がないではないが、健康地としてみた時は誠に天成の好位置で天下無敵の稱がある。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    SLに牽かれた急行列車で4時間半以上。旅情があっていいじゃないの、とも思ってしまいますが、それはSLが珍しくなり、アトラクション感覚で汽車旅を楽しむ現代の感覚であり、当時の東京人から見れば気軽におでかけできる距離ではなかったのかもしれませんね。

    改めて思いますけど、新幹線って偉大ですよね。今や、東京から新白河まで1時間半なんですから。

    白河が天然療養地として適当であることは云ふまでもない。(中略)白河には風土病の如きものは全くなく伝染病の発生もはなはだ少ないので、現住15人の医師は他地方から病人を招来する策を講じている。東京に流行する彼の脚気病の如きは白河に転地すれば医療を加えずとも1ヶ月で美事に平癒する由である。以上の次第である故、東京在留学生等の避暑地として白河の右に出づる地は蓋し稀であろうと思われる。
    国立国会図書館デジタルコレクション「郊外住宅と新別荘地」(大正5年10月15日発行)より引用

    大正時代、理想の別荘地の条件として求められた「健康地」。白河はトップにふさわしい「究極の健康地」だったということでしょうかね。


    展示されていた記事の写真も撮ってきたので紹介したかったのですが、残念ながら画像の掲載は不可(撮影はOK)とのことですので、記事の現物を見てみたい方は石神井公園ふるさと文化館へどうぞ。企画展「石神井公園-池のほとりに育まれた自然と歴史-」は2022年8月14日まで開催中です。

    最後までお読みいただきありがとうございました。


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